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メールマガジン 22-14号 2012.11.15

日にちというものは確実にやってくるものですね。
そして物事には初めがあれば必ず終わりがあります。

「バッハ教会カンタータ連続演奏会」などと大仰な名称を付けて初めはしたものの、
その時には、とても今のような時期を迎えようとは想像も付きませんでした。
ただ1回、1回を必死でやってきただけなのです。

私の好きなカンタータ第8番の歌詞にこんなところがあります、

お慕いします神よ、わたしのこの身はいつ逝くのでしょうか?
わたしの人生は絶えず流れ去っていきます
古きアダムの末裔であるこの身は
父祖代々の遺産であるほんの小さな時間を
貧しく惨めに地上で生かせていただいています
そしてやがて土にかえっていくのです


これほどの無情さほどではありませんが、「最後」という言葉を思う度に胸が熱くなります。
また、
数日前に逗子のホールでお会いしたご婦人から「どうして止めてしまわれるのですか?」と尋ねられて、
言葉が出ませんでした。

この駄文にも長らくお付き合いいただきありがとうございました。
22回目のシリーズも今回で丁度バッハの数14となりました。
これを最後と致しましょう。
(24日が過ぎましたらご報告はしますが・・・)


◆Agnus DeiとDona nobis pacem
「ロ短調ミサ曲」の最後です。

Agnus Deiの通常文テキストはこうなっています
Agnus Dei, 神の子羊よ、
qui tollis peccata mundi, 世の罪を取り除かれるお方よ、
miserere nobis. 私たちを憐れんでください。
Agnus Dei, 神の子羊よ、
qui tollis peccata mundi, 世の罪を取り除かれるお方よ、
miserere nobis. 私たちを憐れんでください。
Agnus Dei, 神の子羊よ、
qui tollis peccata mundi, 世の罪を取り除かれるお方よ、
dona nobis pacem. 私たちに平安をお与えください。


3行づつ同じ言葉を3回繰り返すのですが、その3度目はmiserere nobis(私たちを憐れんで下さい)ではなく、
dona nobis pacem(私たちに平安をお与えください)となるのです。

でもこの通常文は一続きの言葉ですから、本来ならばこれを1曲として作曲するのが当たり前です。
しかし、バッハはそうはしませんでした。
dona nobis pacemだけを切り離して合唱曲としたのです。


◎Agnus Deiの原曲はカンタータ第11番(昇天日オラトリオ)の4曲目、同じくアルトソロとヴァイオリンユニゾン。
また、Dona nobis pacemの原曲はカンタータ第29番の合唱曲、つまりこの「ロ短調ミサ曲」の6曲目Gratiasと同じ曲です。
歌詞を切り離すだけではなく、それを全く別編成の曲としたのです。

まずは聴きましょうか。(このサイトでもこの2曲は続けています)
http://oregonbachfestival.com/digitalbach/bminor/


◎Agnus Deiの原曲、カンタータ第11番のアルトアリアは、天に昇って行ってしまうイエスに対して、
「どうして私たちの所からそんなに早く行ってしまわれるのですか、
それは私たちにとって大きな苦しみです。
どうか留まって下さい」
と歌われる、嘆き、苦しみの歌です。

バッハはこの歌詞が、miserere nobis(私たちを憐れんで下さい)との共通性から
パロディ(作り替え)したのですが、この2つの曲には多くの違いがあります。
その主なものは、
①原曲にある装飾音符的な細かい音符を省いて、シンプルな線的な曲としています。
②アルトは31小節から、歌い始めと同じ音型を歌います(リリングはその前でテンポを落として新たに入っている)が、
agnus Dei qui tollis peccata(罪を取り除く神の子羊よ) で音楽を止めます(フェルマータ)。
そこではmundi(世の)という言葉が消えています。
③最後を原曲とは全く別の音楽にしてmiserere nobisを何度も叫ぶように歌います。
ヴァイオリンの音程も大きく上がり下がりをします。
④最後はDona nobisに流れ込むように・・・


◎Dona nobis pacemのpacemをどう訳すのべきか「平和」か、それとも「平安」とすべきなのか。
プログラム原稿の校正をお願いしている武居さんにまたもやご教示を受けました。

カトリック教会では「平安」と唱える。そう訳すべきと彼女は言う。
「平和」と「平安」とは意味が異なるでしょう・・・と。

確かに、「平安」とは心の中に宿るもの、「平和」は外の状況、そしてこの音楽はGratiasと同じ・・・・。
ここには、「感謝(Gratias)」と「平安(pacem)」との融合がある。
バッハもpacemを「平安」の意味で捉えていたとするならば(そうに違いないが)、
「ロ短調ミサ曲」の最後、つまりは自らが感じていた人生の最後に、この2曲で1続きの音楽を、
自らの「心の平安を神に感謝」する曲にしたと思われる。

そうなると、Agnus Deiで、一旦曲を止めてまで(フェルマータして)mundi(世の)を消しているのは、
バッハが、ここにおける「罪」を、「世の罪」ではなく、「自分自身の罪」として意識していたのではなかろうか???
こんな感想が浮かんでくる。
その後には悲痛なmiserere nobis(憐れんで下さい)を続ける。
そしてその先には静かな「心の平安」に行き着くのである。


◎このGratiasとDona nobis pacemを同じ曲にするのはもともとは無理があった。
Gratiasは2つ(2行)の言葉で、そのために音楽のテーマも2つ。2重フーガとなっている。
Dona nobis pacemは1つ(1行)の言葉、本来なら2つのテーマは要らないのである。
もちろんバッハはそんなことは承知の上で同じ音楽を付けた。
その無理がかえって、、「感謝(Gratias)」と「平安(pacem)」との融合を明らかなものとしている。

バッハは第1テーマでは、テキストをそのままDona nobis pacemとし、
第2テーマでは、pacem dona nobisとひっくり返して、dona(与えたまえ)をメリスマで強調している。
そして、バッハが楽譜の最後の書くFine Soli Deo Gloria(神のみに栄光あれ)もここではFine DSGlとひっくり返しているのだ。
自筆譜の最終ページをご確認下さい。
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そう考えると、Agnus Dei後半でのmiserere nobisの特異な音型による執拗な繰り返しも
最後の「平安」に至る道程であったように感じられる。
曲を書き終えたバッハの心は「平安」であったのだ。

よって私は、この曲の演奏も高らかに勝利を宣言するようなものではなく・・・・Gratiasとは異なって、
安らかなものでなくてはならないと思っている。
大竹先生の解釈は如何に・・・・それよりも合唱団メンバーがここまで持ってくれるかどうかも心配なところである。


◎バッハの執念はこれだけでは終わらなかった。
この曲を真に神に捧げるためにはこれを演奏する必要があったのだ。
パート譜を作らねばならない。
目が必要だった。
そして、彼がリスクを冒してまで受けたインチキ手術は、やはり失敗だった。
1750年7月28日、心の平安を得て彼は天に召された。

彼の最後の願いは叶えられなかった。
でも、その彼の願いは、今全世界の人々がこの曲を演奏し、そしてそこから
バッハが得たと同じ「心からの平安」を得ている。
彼の思いは達せられたのである。


◎ミサの最後には司祭が静かにこう言うそうです。
“Ite, missa est”(ここで終わります、立ち去るがよい)。
ミサの語源は「解散」なのです。

Gratias、ご愛読ありがとうございました。
皆さまのお心にも平安がありますように。


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おります方々に配信していますが、ご迷惑の折にはどうぞご連絡くださいませ。

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ターフェルムジーク鎌倉
吉田龍夫
http://www.geocities.jp/tafel1221/
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# by tafelmusik-k | 2012-11-15 11:50 | メールマガジン22回シリーズ